記憶と知識
今日、こんな記事を読んだ。(夢十夜は無関係)
スマホなどデジタルデバイスへのデータ保存が「デジタル健忘症」を招く? カスペルスキーが解説 -INTERNET Watch
思い出そうとするより検索する方が早い。
よく、「思い出そうとすることが記憶力の維持には大切」と言うが、目先の手軽さに負けてどんどん易きに流される。初めてガラケーからスマホに機種変更して、一番の利点は「すぐにググれること」だった。
分からなくてググって見つけた情報は、忘れたらまた大海原のどこかへ流されてしまうのではてブするか、キャプチャを残すかメモ帳に入力して保存。私の記憶力はかなり鈍っている自信があった。
そこで、文末で紹介されていた「デジタル健忘症チェックテスト」をおびえつつ試した。
テスト結果↓
目を疑った。どっかでご飯でも奢ったことあった?逆に不安になるほどの緩い結果だった。
ただ、テスト結果に安心して胡座をかくつもりはないが、この記事で知識の有無の二元論を久しぶりに思い出した。不定期的にぶち当たる問題だ。
アインシュタインは自分の身長を覚えていなかったという逸話がある。覚えない理由は、その情報が必要になった時に調べれば済むから、と答えたと言う。逸話の真偽はどうでもいい。明解で好きな考え方だ。
塵も積もればで、小さな知識の集積がそれなりにまとまった考え、アイデアの基になる。それは仕事でもそれ以外でも、生きていく上で欠かせないはずだ。
ただ、オタク気質で道楽者の私は、調べれば分かるはずの事柄を気が付けば必死にかき集めることがちょくちょくある。
休養中、抑鬱症状の一つで文字情報を追うのが辛くなり(極端に「目が滑る」状態)、それまでほぼ放置してたピンタレストやtumblrで気を紛らわせていた。
で、好きな画像をピンしたりリブログしてると、「あぁっ!これ知らなかった!」とか、「こんなのもあるのか」とか、些末な情報をちまちま拾っていく楽しみにかなり助けられた。古本屋街をバーチャル散策しているような気持ち。アインシュタインの清々しい境地には程遠い。
趣味に関して言えば、知識はあったに越したことはないけどあるかないか、1かゼロかの話になってしまうのは何だか貧しい。
1を積み上げていけばそれなりの数字には辿り着くけど、その数値を競い合うことは虚しさを感じる。
ある情報について、それを単なる知識の一つとするか、他の事柄に繋がる可能性がある知識とするか。
馬鹿とハサミと同じく、情報も捨て駒にしないでなるべく実のある使い方がしたい。かつ、記憶力も鈍らせないようにできれば理想。
Crows, Cranes & Camellias: The Natural World of Ohara Koson 1877-1945
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↑ピンタレストで知った浮世絵師、小原古邨。動物の絵がどれも素敵なのに、書籍が少ないのが残念。もっと見たい!